2008年05月26日

アタシの記憶。

堤幸彦 『明日の記憶』(2005) ☆7.6

荻原浩の同名小説を、渡辺謙主演で映画化。広告代理店のやり手ビジネスマンが、ある日突然アルツハイマー病だと診断され、その後ゆっくりと今までの記憶を失っていく過程を描いた秀作です。あらすじは、まあそんなところなので割愛しますが、僕は個人的にこういう脳の機能障害みたいな事例が好きで、好きって言うと語弊がありますが、なんていうかとても興味が尽きない現象だなと思う。脳のここやあそこが破壊されると、例えば、言葉の意味が理解できないとか、人の顔が認識できないとか、ホントにあらゆる異常なことが起きる可能性があって、それが恐ろしくもあるし、非常に興奮するところでもある。オリヴァー・サックスの『妻を帽子と間違えた男』とかね。

とはいえ、今作がそういったある意味下世話な興味を満たしてくれるかっていうとそんなことはなくてですね、これは基本的に真実の愛とは何か?みたいな物語で、主要な場面は渡辺謙演じるアルツハイマーの佐伯雅行とその妻、枝実子(樋口可南子)との魂の交感というかそういうヒューマニスティックな感じに終始してて勿体ない。僕はアルツハイマーに関しては記憶を失うっていう程度にしか知らないですが、どの記憶が失われてどの記憶は失われないのかっていう、そのラインが気になってしょうがない。おそらく実際には個人差があるんだろうし、医者にもはっきりしたことは言えないんだろうけれど、やはりこの主人公の記憶障害は、製作者の意図に沿った記憶障害だという感じがしてしまう。「物語」に回収される為にあるっていうか、それを補強する為にあるっていうか。

一番あり得ないと思われたシーンが、病状がある程度進行している後半、佐伯はかつて妻と訪れた思い出のある陶芸作家(大滝秀治)の元へと一人でフラフラと向かって、持っていった素焼きの茶碗を焼いてもらうんだけど、その火(窯焼きじゃない焚き火みたいな感じの)を囲んで爺さんと飲んでたら寝てしまって起きたら朝になってて、爺さんは居なくなってる。で、佐伯は周りをきょろきょろ見回して「爺さん〜どこだ〜?」って叫んで、ここらで僕の中の嫌な予感が発動してんですけど、おもむろに向き直った佐伯は何の躊躇も混乱もなく目の前の燃えカスの中から茶碗を掘り出して、持って歩き出すんですね。それはちょっとさすがにご都合主義だろう、と。なぜ、昨晩の茶碗のことを忘れてないのか?おそらく昔のことほど覚えているっていうのは実際あると思うし、だからこの山の中まで来れたんだろうけど、でも昨晩の茶碗だからねえ‥あそこで記憶障害がちょっとも出てこないのはなあ‥‥。だって電子レンジでおかずを温めてる間に食べるのを忘れちゃうような人なんですよ。だったら、最終的に茶碗を手にするとしても一回は忘れかけて山を下り始めるんだけど、慌てて思い出して掘り返しに戻る、とかでしょ。そのまま忘れ去るのも残酷で良いと思うけど。たぶんそっちの方がリアルだしな。あらゆる症状に意味を求めたがるのは心情的に分かるけど、残念ながらそんなモノではないと思います。



公式サイト。↓

http://www.ashitanokioku.jp/
ラベル:邦画
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2008年05月25日

原題は『White Noise』です。

ジェフリー・サックス 『サイレントノイズ』(2005) ☆7.0

主演が『バットマン』でおなじみのマイケル・キートン。監督はイギリスのTV界で活躍してた人らしくて今作が映画デビューらしいです。という訳で、あらすじ。↓

(*ネタバレ注意)マイケル・キートン演じる夫ジョナサンは、妻であるアンナ(チャンドラ・ウェスト)と息子マイケルとの三人でとても幸せに暮らしてたんだけど、突如アンナが行方不明になってしまう。警察の捜索も空しく、行方が掴めないまま何日か過ぎたある日、ジョナサンの前に一人の男が現れる。その男、レイモンドはジョナサンに「奥さんは死んでいます。私は彼女の声を聞きました」と告げ、名刺を置いてどこかへ消える。当然ジョナサンはそんなバカなことを信じちゃいなかったんだけど、実際に警察から奥さんの遺体が見つかったと連絡を受け、ひたすら慟哭。何日経っても悲しみは晴れず、彼女の声を再び聞きたいという思いから、ジョナサンはあの男の家を訪れることになる。

レイモンドは愛する人を亡くした悲しみからEVP(電磁音声伝達現象)と呼ばれる現象、簡単に言うとあの世の人間の声を録音できる装置の研究を自宅でしてるような悲しい男で、しかしその現象に魅せられたジョナサンもまたすっかりハマってしまう。でも、あの世と交信するのはコックリさんよろしく当然ながらとても危ない。深追いすればアンナとは関係ない悪霊を召還して呪い殺されてしまい、実際レイモンドは死亡するんだけど、ジョナサンはアンナの声を聞く一心で自らの自宅にEVP装置を持ち込み、四六時中ブラウン管と向かい合う生活を送り始める。

そっからは彼女を殺した犯人とか最後に出てくるんだけど、途中からよく分からない設定が入ってきて、なんかゴチャゴチャしてくる。この録音機器っていうのはリアルタイムで霊と交信できる訳じゃなくて、ビデオやカセットテープをずっと録画状態にしておいてその後に巻き戻してそのテープを再生すると、運が良ければ何か声なり姿なりが写っているっていう手法で、そこには時間差が生じる。で、途中からまだ生きている人間が写り出して、そこに写ったヤツはその後死んでしまうということが発覚して助けに走るみたいな、つまり未来予知の要素が入ってくるんだけど、ちょっと盛り込み過ぎ。それだったら最初から未来の出来事が見える装置っていう話にすりゃいいのに。このままタイムパラドックスな方に行くのかと思いきや、そっちには行かないで悪霊との対決になるのも、ちょっとどうなんでしょう。予知とか霊との交信&録音とか、単純に犯人探しとか、どの要素でも面白くなりそうなんだけどそれらの可能性を絶妙に回避してつまらなくしてしまったっていう、『デジャヴ』になり損ねたような感じで勿体ないっす。



予告。↓


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2008年05月24日

パッチギ2‥‥。

井筒和幸 『パッチギ! LOVE&PEACE』(2007) ☆4.5

前作『パッチギ!』(2004)の世界観とテーマを引き継いで製作された続編。74年の東京に舞台は移され、在日朝鮮人家族の長男であるアンソンを井坂俊哉が、その妹キョンジャを中村ゆりがそれぞれ演じています。で、以下あらすじ。↓

アンソンには難病を患っている息子のチャンスという男の子がいて、その治療の為にも東京に引っ越してきたのだが一向に回復の兆しは見えず、一家は高額な治療費に喘いでいる。そんな時、バイト先の焼き肉屋で妹のキョンジャがとある芸能事務所の人間からスカウトされ、チャンスの治療代の為、そしてこのままくすぶっている自分の人生を変えたいと思ったキョンジャは事務所を訪れ、アイドルとしての道を踏み出すことに。徐々に芸能界の仕事も増え、軌道に乗り出したのも束の間、決まりかけた映画のヒロイン役を朝鮮人だからという理由で降ろされ、自分の境遇を呪うキョンジャ。そんな彼女の前に現れたのが人気俳優の野村健作(西島秀俊)という男で、その自然体で物腰の柔らかな態度にキョンジャは惹かれていき、ある晩一夜を共にする。しかし、そこでキョンジャから自分の親に会ってほしいと告げられた野村は態度を翻し、「冗談じゃない!朝鮮人と結婚なんかできない!」と拒絶され、ショックのあまり自暴自棄になった彼女は、映画のプロデューサー三浦の泊まるホテルの一室を訪れ、ヒロイン役を条件にその身を売るのだった‥‥。

一方で、ですね。兄貴は兄貴でなんか死んだ親父の古い知り合いであるらしい在日の婆さんに金塊の取引みたいな裏仕事を紹介されて、なんとか金を作ろうとするんだけど警官に見つかって遁走して、みたいな展開になってて、正直ちょっと意味分かんないですね。前作は「日本人と在日朝鮮人との間の叶わぬ恋」が主要なモチーフとしてあって、すごく分かりやすく芯の通った話だったんだけど、今回は一体何がしたいのかよく分からない。話の軸がどこにあるのか。終盤の舞台挨拶で、キョンジャが自分は朝鮮人だということをカミングアウトしてしまうシーンがあって、「朝鮮人への差別感情」が今作も主要なテーマだということは分かるんだけど、じゃあなんで難病の息子とか出てくるんだろう?まさか朝鮮人に生まれたが故に発症した病気っていう訳じゃないでしょ。そんなんだったらそれこそ差別だし。だから僕には、その設定が単に虐げられた人たちを演出する為に用意された悲劇だとしか思えない(現実に在日の人たちが虐げられていないっていうことじゃないですよ。念のため)。

映画の役を取る為にプロデューサーと寝るとかいかにも時代錯誤だし、随所で挿入されるアンソンの親父たちの戦時中のシーンとかも非常に扇情的で、プロデューサーの三浦が作ろうとしてる大政翼賛的な映画とどこが違うのか。どっちが真摯で勇敢な人間なのかっていうのを互いに比べっこしたって何の意味もないし、答えなんか出ないでしょ。どこの国にだって卑怯な人間やら心の貧しい人間はいるし、逆に、誠実で真摯な人間だっているはずで、それを日本人や朝鮮人っていう民族の違いで規定してしまってはそれこそ差別の素地を作ることになるんじゃないかな。本作で、在日朝鮮人の中に悪人が見当たらないっていうのを観ると、あからさまに善と悪が二つの共同体にそれぞれ担わされてて、そんな単純化しちゃっていいの?っていう感じ。それじゃ簡単に立場がひっくり返っちゃうよ(っていうことを描いてんのがフリッツ・ラングの諸作ですね。『M』とか『死刑執行人もまた死す』とか)。そいつが人非人なのはそいつ自身が人非人だからであって、日本人だからとか朝鮮人だからとかではない。そんなこと当たり前なんだけど、本作にはそういった意識はないようです。残念。



予告。↓


ラベル:戦争 邦画
posted by ケニー at 09:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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